会員からの
お便り
ニューヨークから 
瀬戸口 健三 氏 
(35回卒)

 自由の女神、ブロードウエイのミュージカル、5番街のブランドショップ、高層ビルに囲まれた広大る方も多いことでしょう。
 私 が今住んでいるのは、そのニューヨーク。映画の「ハリウッド」に対して、広告は「マディソン・アベニュー」が代名詞。このマディソン・アベニューは、マンハッタン島を南北に走る5番街の1本東寄りの大きな通りの名前です。かつて、この通り沿いに広告会社が軒を並べていることからそう呼ばれるようになったようです。(もっとも今では地価高騰の煽りを受け、多くの広告会社は別の地区へ引っ越してしまいましたが・・・)広告の世界では、ここニューヨークが今も世界を牽引していると言っても過言ではないでしょう。

 都城からアメリカのニューヨークに来てしまったのは、会社の海外拠点に異動になったというドラマも何も無いシンプルなサラリーマンの話で、時期が来れば日本に帰任になるだろうし、また他の国へ転勤するかもしれないという落ち着きのない人生を送ることになりそうです。それでも、多少異なった経験ができるということでは、このニューヨーク生活を楽しんでいます。
 世界の広告をリードするニューヨークで仕事をしているわけですから、楽しくないはずがありません・・・と言いたいところですが、下手な英語ではなかなか言いたいことが伝わらないなど、苦労も多いです。苦労しながらも、刺激的な毎日です。ニューヨークの広告というと、タイムズスクエアーのネオンサインを思い浮かべる方が多かもしれませんが、それはほんの一部。TVや雑誌の広告はモチロンのことインターネットの広告テクノロジーなど、新しいことが次から次へとダイナミックに動いています。

 まとまった休暇には旅行です。せっかく東海岸にいるので、日本からは行くのに乗り換えなどで面倒なところ、行きにくいところを、今のうちにと。小さい子供連れで、観光地巡りはなかなか勇気がないので、もっぱらビーチリゾートです。前回はメキシコのリビエラ・マヤに。1週間ビーチ沿いのホテルでボーっとしていると、ストレスも吹き飛びます。ウチの息子、産まれて初めての海水浴がカリブ海ですよ、贅沢だなぁと思います。日本に帰ったら青島にも連れっていってあげようと思います。


瀬戸口 健三 (第35回卒業)
早稲田大学政治経済学部卒
 株式会社 電通勤務
 現在ニューヨーク赴任中



米国広告リサーチ協会(ARF)より表彰される 
2011年3月


記事の紹介
仰げば霧島いや高く
~都城泉ヶ丘高等学校100周年~ 
宮崎日日新聞掲載

1 夜明け前
 受け継がれる校風は「質実剛健」。県立都城泉ヶ丘高等学校は、盆地の人々の熱い期待を集め、旧制・都城中学校が開校したのは、1899年(明治32年)5月1日。その後の歩みは、県西・南部と一部鹿児島県を含む都城圏域の教育の中核として大きな足跡を残し、多くの逸材を社会に送り出してきた。
 都城に中学をー。


写真は都中第1回生
46名卒業写真
 1897年(明治30年)4月、尋常中学校分教場設置を陳情する建議書が宮崎県知事・千田貞暁に届けられた。提出したのは産業振興と学業奨励のため組織されていた鹿児島郷友会都城支会(山下盛徳会長)。

 都城市支にある建議書の内容はこうだ。「中等以上の人材養成が急務であるが、勉学のため師弟が遠く父母のひざ元を離れること、また家計の負担も大きく忍びない、宮崎の学校に通学できるものは希望者の1,2割に過ぎない・・・中略・・・自ら経営したくても資金不足のためかなわない。当地方に中学校分教場を設立してもらえば本郡の幸せ・・・」

 郷友会都城支会の会員は、都城町を含む北諸県郡だけでなく小林、野尻、加久籐、鹿児島県の末吉、財部など都城圏域一帯に広がっていた。「都城に中学校を」の願いは、地域全体の願いだったことを示している。
 加えて地元選出県会議員の働きも大きかった。その中の一人、志摩清信は県会で都城における中学校開設の必要性を論じ、黒いひげ面の巨体で当局側をにらみつけ、「このことが入られなかったら、本県西南部は鹿児島県に復帰するぞ」と叫んだという。
 宮崎県は、1876年に鹿児島県に吸収され、永年の分権運動の末、やっと1883年に新宮崎県が誕生したばかり。志摩のこの一言は効果十分であったと思われる。こうして中学開設は大きく前に転がり始める。

 1998年11月、郷友会都城支会が千円、翌年3月には都城町が千五百円を共に北諸県郡に寄付。郡はこの資金を元に同町小松原に2千8百坪の敷地と、4百89坪の校舎を購入、建設し、県に寄付した。そうした地元の熱意と運動が実り、1899年5月1日一気に開校にこぎつげた。中学校開設の建議書を提出して2年が経過していた。